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今月の歳時記/3月

2011年3月 3日

写真:今月の歳時記/3月

「ひな祭り」春に嬉しい女の子の節句

倉敷では毎年2月から3月に掛けて、雛めぐりの催し物が行なわれています。

今年も2月26日(土)〜3月13日(日)の間、倉敷の美観地区を中心に、児島、水島、玉島、船穂、真備でも賑やかに、お雛様の色々な行事が行なわれます。

雛めぐりの様子

期間中は、倉敷市内の観光施設はもちろん、商店、ギャラリー、ホテル・旅館などでも雛人形が飾られ、それにちなんだコンサートや人形作り、雛料理なども楽しむことができ、倉敷に春の訪れを感じさせてくれます。
詳しくはこちらをご確認ください



【雛祭りの歴史

ひな人形


さて日本の雛祭りの歴史は古く、平安時代の中頃(約1000年前)から始まりました。
その時代の人々は3月の初めの巳(み)の日に、無病息災を願ってお祓い(はらい)をする行事を行なっていました。陰陽師(おんみょうじ:天文、地相、人間などの吉凶を占う人)を呼んで、 天地の神に祈り、食物を供え、人形(ひとがた)に災いや凶事を託して川や海に流したのです。

この風習は、今でも各地の“流し雛”の行事にその面影を残しています。
また、
その頃の宮廷の婦人や子どもたちの間では“ひいな遊び”という遊びが行なわれていました。紙で作った人形と、身のまわりの道具をまねた玩具で遊ぶもので、今の“ままごと遊び”のようなものです。紫式部の「源氏物語」や、清少納言の「枕草子」の中にもその記載が見られます。そして、この無病息災のお祓いと“ひいな遊び”とが結びついて、“上巳(じょうみ)の節句”として定着したのが、現在の『雛祭り』の起源です。

室町時代には、“上巳の節句”が3月3日に行なわれるようになり、江戸時代の太平の世になると“上巳の節句”は女性のお祭りとして、非常に盛んに行なわれるようになります。

この頃のひな祭りは旧暦の3月3日に行なわれていましたので、現在の4月上旬頃にあたります。桃は満開、よもぎも芽を伸ばし、蛤(はまぐり)もおいしくなる季節です。
日頃、休みなく働いている女性たちにとっては、何より楽しい季節の行事として、また女性のお祭りとして、生活の中に根づいていきました。

そして江戸時代の中頃には、女の子の誕生を祝う“初節句”が盛大に行なわれるようになり、ひな祭りは、日本独特の優美な行事として現代に受け継がれていきます。
厄よけの人形(ひとがた)、天児(あまがつ)・這子(ほうこ)などから出発した雛人形は最初は立ち姿が主流でした。

時代を経るにつれ豪華な坐り雛が主流になり、江戸時代の最盛期では豪華な金襴を使い、人形も大型化、等身大の物も登場した文献が残っています。

江戸時代には年々華美になる雛飾りを禁ずるおふれが数度となく出され、明治には従来の節句行事が廃止され、新しい祝祭日が定められたせいで一時下火になったこともありますが、人形や年中行事を大切に思う人々の中で受け継がれ今に至っています。

1年に1度、のびやかに育つわが娘の成長を確認しつつ、楽しく過ごす雛祭り。
平安の昔に始まり長い歴史に培われ、今日に至るこの美しい伝統行事をいつまでも大切にしたいものです。


【倉敷の雛祭り】
倉敷の雛祭り

さて、倉敷での雛祭りの行事はどうだったのでしょうか。


倉敷が天領となった江戸時代。
幕府が五節句(※1)のひとつとして3月3日を「桃の節句」と定めたことで、雛祭りの風習が発展していきました。江戸も元禄以降になると、人形づくりの技術もめざましく発達。様々な様式のお雛様が登場することになります。

まるで倉敷の町に蔵や商家が軒をつらねて賑わい、また児島や玉島が栄えていくのと、歩みを合わせるかのように・・・

「倉敷には、お雛様がよく似合う」のは、どちらも“江戸”という同じ時間に磨かれたからこそ、なのかもしれません。

※1: 五節句[五節供]
1月7日の人日(じんじつ),上巳(じょうし)の3月3日,端午(たんご)の5月5日,七夕(たなばた)の7月7日,重陽(ちょうよう)の9月9日を言い、この五節句は季節の変り目に健康を祈る日でもありました。



【京都はお内裏様と、お雛様が逆!?】
それでは少し、お雛様のあれこれについてお話ししましょう。

まず飾り方です。
飾り方にも地域や文化によって様々な違いがあります。
知識として知り、お雛様を観るとまた違った楽しみがあるものです。

◆お内裏様
普通は、向かって左がお内裏様(親王:男)、右がお雛様(内親王:女)です。古典的または京都のお雛様は左右を逆に飾ります。これには幾つかの説があります。

お雛様は、天皇様を模した人形です。
京都御所の紫宸殿(ししんでん)や平安神宮は南に向いて建てられています。そこから「天皇は南座する(南に向かって座る)」と言われてきました。南に向かってお座りになると、左側が東になります。そこで太陽は東から昇るので、先に朝陽を受けられるのはお内裏様(親王:男)です。

と言うことで、向かって右側がお内裏様(親王:男)と言う説。

つまり京都では左が位の高い位置とされ、京都の地名の「左京区」「右京区」もこれならったものです。地図でみると左右が逆になっているのも、東が左京区だからです。
舞台なども向かって右が上座です。

また別説では、古来日本では左が上位(左大臣は右大臣より偉い)。ただこの左右は一番偉い人が下位の者を見た場合の左右なので、雛飾りでいえばお内裏様から見た左右です。そのため、お内裏様、お雛様を見上げる立場からすると向かって右が上位と言うことでお内裏様が向かって右、お雛様が左にある(別に男尊女卑論ではありません)関西の方式が日本の古来からの方式と言えるかもしれません。

しかし、明治以降ヨーロッパ等の習慣にあわせて女性を向かって右に配する方式を日本の皇室が採用した(西洋式の行事について)ことから、東京の人形商協会が向かって右を女性、左を男性の配置を正式とすると決定したそうです。

結婚式では新郎新婦はこのように並びます。
今ではどちらが正しいのではなく、好みによって飾り方を選んでいます。
京都の雛祭り

◆左近の桜 右近の橘
「左近の桜」「右近の橘」で、右大臣、左大臣の事を樹木で表しています。
京都御所の紫宸殿(ししんでん)や平安神宮にもちゃんと御殿の前の庭に「左近の桜と右近の橘」が植えてあります。最初は左近の桜や右近の橘の代わりに、中国からの渡来文化の象徴ともとられる「梅の木」を植えていましたが、弘仁3年(812年)2月12日嵯峨天皇が、神泉苑で「桜」を見、文人達に詩を作らせたのが、「花宴」の節会の始まりで、桜の花見の風習が定着し、日本の花は桜とされてから、承和年間には桜の木に植え替えられ「左近の桜と右近の橘」となりました。

今でも、800年ごろ嵯峨天皇が築いた嵯峨離宮の大覚寺(正式名・旧嵯峨御所大覚寺門跡)にはその名残りの「左近の梅」が残っています。

また学問の神様で有名な北の天満宮には、右近の梅があります。


◆菱餅
ひなまつりに白酒が出てくるのは、桃のお酒と合わせて紅白にするためとも言われています。また菱餅は上から赤、白、緑になっています。赤い餅はくちなしが含まれていて解毒作用があり、白い部分は血圧降下作用、そして緑の餅のよもぎは造血作用があって、古えの健康食品でした。また菱餅の形というのは心臓を形取ったものだとも言われます。


◆御殿雛(ごてんびな)
御殿というのは、京都御所の紫宸殿を模したものを指し、紫宸殿風の館に内裏雛を飾ったものを御殿雛と呼びます。

江戸時代から明治、大正時代にかけての御殿雛は、上からお雛様を覗けるように、屋根がありませんでした。昭和の時代に入り、京都御所の紫宸殿をイメージして、豪華な屋根や階段があるような、今で言うド−ルハウスのような形の物が流行しました。

さて、おひな祭りの3月3日のことを「桃の節句」と言います。
もっともこれを「桃の節句」と言ったのは旧暦の3月3日頃が桃の花の咲く時期に当たるためで、今の時期はまだ梅しか咲いていません。そこで月遅れで4月3日に行うところもあるようです。(こういう新暦の月遅れで行事をするやりかたを中暦と言います)

この桃の節句には古くは桃の花を愛でたり、桃の花を浮かべた酒を飲んだりして楽しみ、桃の葉を入れたお風呂に入って無病息災を願いました。同じように柳も飾りますが、これも柳が生命力が強いことから、健康を祈って飾ったものです。また、そもそも中国伝来思想として、桃には魔避けの力があるという考え方がありましたので、この日は禊ぎ祓い(みそぎばらい)の日とも考えられました。その代表が流し雛で、人のけがれや災いなどを形代に移して川に流し不浄を祓う行事です。

いつしかこれが「ひいな遊び(おままごと遊び)」と合流して「雛祭り」が生まれたという背景もあるようです。
御殿雛