天領のさきがけ

大阪冬の陣の際、小堀遠州(備中松山藩の代官で倉敷の統治も兼任)が徳川側に大量の兵糧米を送り、その功績が認められたこともあって、倉敷はいわゆる"天領"となりました。以後、幕府の保護や周辺の豊かな農地や産物を背景に、物資の集積地として成長していきます。荷揚げ場や、大八車のレールとなった石畳、常夜灯などが積出し港の特徴的な工作物があちらこちらで当時の反映の様子を伝えています。

今なお残っている大八車を通すための石畳。

   

新興豪商の登場

江戸中期の寛政年間になると、商品経済の発展で財をなした新興商人(新録)が台頭。自由で活気のある商都として大きく飛躍する中心勢力になります。「新録」の代表格が「大原家」と「大橋家」。18世紀後半に建てられた両家の邸宅は今も大切に保存され、美観地区の代表的な風景として親しまれています。
■大原家住宅

綿の仲買や米穀問屋を営み倉敷の有力商人となった大原家の本邸。倉敷の典型的な町屋で、孫三郎はここで誕生しました。(非公開)

   

倉敷の産業革命 紡積所設立

明治維新により、天領の町倉敷は一転して混乱と不景気に。何とかこの暗い状況から脱却しようと大原氏を中心に相談、開化の花形産業であった紡績会社の設立を決定しました。1889年(明治22)、旧代官跡地に赤レンガもあざやかな最新の紡績工場が操業。新たな繁栄へのスタートを切りました。
■倉敷紡績所
(倉敷アイビースクエア)

明治になり衰退する倉敷を再興するため、孫三郎の父・大原孝四郎が資金を提供して1888年(明治21)設立された紡績所。現存する明治20年代の工場としても貴重な産業遺産です。

   

歴史と文化の町並み保存の道

町並み保存の重要性に着目した大原總一郎らは、「倉敷をドイツの歴史的都市ローテンブルグのようにしたい」と言う考えを抱きましたが、戦争を目前にして実行に移すことは出来ませんでした。しかし、この思想は後の文化人に多大な影響を与え、戦後の保護活動へとつながっていきました。

 

重要伝統的建物群保存地区へ

昭和30年代後半、町並み保存のための有志による活動は行政・住民主体の取り組みへと移行していきました。そして、昭和44年には保存計画が告示され、「倉敷川畔美観地区」が指定されました。さらに昭和54年に「重要伝統的建物群保存地区」として国の選定を受けるまでになりました。

 

400年の歴史と文化を感じる町

天災に見舞われることも少なく、戦災に遭うこともなく400年近くの歴史を持つ町並み。今日に至るまでの先覚者たちの多大な尽力と、地域住民の町を愛する気持ちもあり、観光客の絶えない美しい町並みを今に残しています。さらに、今のままの景観を未来へ残していく町並み保存の取り組みは続いています。
   
大原孫三郎(1880〜1943)

倉敷紡績〈クラボウ〉の社長として日本有数の紡績会社に発展させる一方で、生涯を通じて社会事業、芸術文化などの支援に私財を惜しみなく投入しました。

大原總一郎(1909〜1968)

孫三郎の長男。倉敷絹織〈現(株)クラレ〉社長として国際的企業に育てるとともに、孫三郎の社会・文化事業を継承。倉敷を今日の芸術文化都市に発展させました。